眠れない一族 食人の痕跡と殺人タンパクの謎
を読んだ。

イタリアのヴェネツィアのある高貴な一族は、代々謎の不眠症に苦しんでいた。
この病気は中年期に発症し、異常発汗や硬直、瞳孔収縮を引きをこし、やがて患者は不眠状態に陥って死んでしまう。不眠と疲労の極限状態においてもなお、患者の意識は明確で自分に何が起こっているのかを完全に理解し、恐怖と絶望の中で死んでいく。
この本は、この致死性家族性不眠症と呼ばれる病を持った一族の数世紀にわたる記録をもとに話が展開する。やがて、この病気はニューギニアの食人族、フォレ族の奇妙な病クールーや、イギリスの羊の奇病スクレイピー、牛のBSEなどと同じプリオン病だということが判明する。そして、そのプリオン病の解明が進むうちに、およそ80万年前の人類の食人習慣にたどりつく。
プリオン病は非常に興味深い。上記に挙げた様々な病気は、遺伝性、感染性、散発性という3つの形態を持ち、症状も同一ではない。何よりも、プリオン病の病原はウィルスやバクテリアのような生物ではなく、遺伝情報を持たない非生物のタンパク質なのだ。パストゥールとコッホによって発見された、ウィルスやバクテリアなどの生物による感染ではなく、遺伝子を持たない非生物の病原体であるプリオン感染の存在を受け入れるには、大きな思考の飛躍が必要であった。
プリオンは免疫反応を起こさない。単なるタンパク質にすぎず、命は無い。しかし、いったん生物の体内に入ると、自分と同じ型の(その生体にとって)異常なタンパク質を増やしていく。まるで生物のように増殖して感染を引き起こす非生物なのだ。ウィルスやバクテリアは、自らの遺伝子を広めようとする競争の原理に基づき増殖しようとする。これらの生物の振る舞いは、ダーウィンによって提唱された進化論で説明できる。しかし、遺伝情報を持たないプリオンは、このパラダイムでは理解できない。非生物による感染という新しいパラダイムで理解しないといけない。
プリオンは非生物であるがゆえに怖ろしい。ただの物質であるがゆえに、不活化が非常に難しいのだ。ウィルスやバクテリアを死滅させる手段はほとんど通用しない。火も熱も煮沸も効かない。放射線でも確実に「殺す」ことはできない。漂白剤やホルムアルデヒドなどの強力な薬品も効かない。さらに、プリオンは金属と結合する。医者が脳波を取るために患者の脳に埋め込んだ電極を再利用したりすると感染するため、クロイツフェルト・ヤコブ病患者の手術や検死に使った器具は一回で廃棄されることが多い。
スクレイピーと呼ばれる病気がある。羊がかかる感染型プリオン病で、欧州で大流行した。スクレイピーに感染した羊は脳を犯され、治まらないかゆみのため体を激しく壁や木にこすりつけて(Scrapeはこするの意味)ボロボロになり死んでいく。彼らが感じるかゆみは脳に原因があるため、掻いても掻いても治まる望みは無い。
スクレイピー流行の原因は、人の手による極端な羊の品種改良による遺伝子異常であるといわれている。1700年代前半、欧州では人口が激増していたため、食糧不足に陥っていた。当時の羊は非常に細く、骨が太く肉付きが悪く、大量の牧草を食べるのにわずかな利益しかもたらさなかった。そのため、農場経営者は理想の羊へと品種改良しようとした。理想の羊とは、頭が小さく、首が短く、足は細くて胸と尻が途方も無く大きいものであった。畜産家ベィクウェルは、羊の改良に乗り出した。その方法は極端な近親交配である。優秀な羊が生まれると、その羊と子孫を何度も何度も交配し、その優秀な羊の遺伝子関与率を高めた。ようするに、娘の夫となり、孫を産ませ、孫の夫となりひ孫を生ませる、と言った行為である。この行為は近親交配は遺伝的欠陥を引き起こすという見識に反していたが、ベィクウェルはそれを成功させた。ベィクウェルの生きていた期間のうちに、ロンドンで取引されている羊の平均体重は、13キログラムから 36キログラムに増えた。
狂牛病の話も非常に怖ろしい。1980年代、イギリスで狂牛病が大発生した。狂牛病の原因は、牛に与えられた「ケーキ」と呼ばれる動物性飼料である。これはいわゆる肉骨粉のことである。この「ケーキ」は、ただ廃棄されるだけの動物肉や骨を原料にして作られ、栄養状態を改善して大量の牛乳を生産できる牛を育てるために考案された。原料には病気の鶏や豚や牛などを原料に作られていた。牛は共食いをさせられていたのだ。この「ケーキ」にプリオンが入り込み、牛に感染した。感染した牛は再度肉骨粉になるので、この繰り返しで大量の感染牛が生まれた。
狂牛病へのイギリス政府の対策は常に後手に回った。狂牛病は人には感染しないという思い込みと、国内畜産業を保護しようとする圧力により、最初の発見から8年間も有効な対策が取られず、この間100万頭単位の感染牛がイギリスの食品供給経路に入り込み、6400億食もの狂牛病感染牛がイギリス人によって食された。

もし狂牛病が人に感染しやすい病気であったならば、1000万人の犠牲者が出ることが予想された。しかし、幸いにも狂牛病は人に感染しにくい病気であったため、現在、専門家たちは死亡者数の上限を7000人と推定している。
プリオン研究者のコリンジは、プリオン病を発症した患者の遺伝子に共通する傾向を発見した。人のDNAにはプリオン遺伝子というものがあり、これには人によって「ホモ接合」と「ヘテロ接合」がある。これらの接合体の型は、確率的には1:1の確率で存在する。
コリンジはプリオン病の患者のプリオン遺伝子を調査し、これれの患者にはホモ接合を持っていることが多いことを発見した。これまでイギリスでヒト狂牛病にかかった患者は、ひとりを除いて皆、ホモ接合対を持っていたのだ。さらに、クールーと呼ばれるプリオン病がかつて蔓延していたパプアニューギニアのフォレ族人々を調べたところ、異常なほどヘテロ接合体を持つ人が多かった。かつてフォレ族はクールーによる大量の死者を出した。現在生き残っているフォレ族の人々は、ヘテロ接合を持っていたため、クールーの感染を免れたのだ。
コリンジの研究室はイギリス人のプリオン遺伝子を調べた。その結果、イギリス人には非常にヘテロ接合体を持つ人が多いことが判明した。イギリスで6400億食もの狂牛病の肉が食されたにも関わらず、感染者が数千人に抑えられたのは、このヘテロ接合体のおかげだったのだ。次にコリンジの研究室は、世界中の人々のプリオン遺伝子を調査した。すると、世界中のどの民族も、ヘテロ接合を持つ人の方がはるかに多いことが判明した。ここから、人類には、かつてヘテロ遺伝子を持つ人が優位に生き残れるような進化の選択圧がかかっていたと予想される。その選択圧とは、初期人類が食人を行っていたという説である。
初期人類は食人を行っていた。ここで仮に、ある一人の人間にプリオン病が発生した場合、その人を食べた人もプリオン病になる。プリオン病は潜伏期間が数年から数十年と非常に長いため、感染者は気づかない。それらのプリオン病感染者がさらに食べられることにより、プリオン病はあるとき一気に蔓延する。これは、パプアニューギニアの食人族であるフォレ族に1950年代に起こったクールーによる大量死と同じストーリーである。このようなプリオン病感染による大量死により、ホモ接合体を持つ人は数が減り、ヘテロ接合を持つ人々が多く生き残ってきた。世界中の多くの人々がヘテロ接合を持つのは、人が食人の習慣をもっていた証である。
最後に日本人のことを書こう。日本人は、狂牛病に対し慎重に対処するべきである。なぜなら、理由は不明だが、日本人の国民のほとんどが、プリオン病に感染しやすいホモ接合を持っているからである。もし狂牛病がイギリスではなく日本で蔓延していたら、そうとうの被害が出ていただろう。
非常に面白い本であった。医療ミステリィに興味がある人にはおすすめである。
僕はカナダで大量にハンバーガーを食べていた。かなり怖ろしくなった。
いまだにこわくてゼラチンには非常に神経質です。